深淵使いと六指の奏
第一章:深淵の少女
「遅かったか…」
よどみのない男の声が響く。
その声の主、ソロン・カートスは鼻孔を劈くあまりの腐臭にたえきれず、足膝まで覆う紺色の外套で鼻を覆った。
目の前には地平の果てまでの地獄。
かつての大地はそこに無い。草木は朽ち、水は黒く汚れ、視界さえも濁っている。
そして何より、そこには命が無かった。
鳥、家畜は愚か、ヒトさえも腐り、総ての命が絶えていた。不幸中の幸いと言うのはどうかと思うが、それらに蟲が湧いてないだけましといえた。
盛者必衰の理、生きとし生けるものが果てるのは道理。これもとある繁栄と衰退の円環の一つの形なのかもしれない。形あるものは形どんなものであろうと崩れ去るのだから。
しかし、ソロンは考える。
総ての命を奪い、総てを腐敗させるには、相応の時間を必要とする。少なくとも人体が目に見えて腐るには、夏場で三日、冬場で一週間は要する。つまりだ、このような光景を作り得るには時という束縛がなければならない。それが例え、戦争や疫病、飢饉であっても。
だが、どうだろう。
この地獄には目に見えて「時間」が無い。
さびれたクワを振り上げて、畑を耕そうとしたまま、腐敗したヒトだったソレ。
数瞬前は牛車とそれをひく男だった、今は腐敗したソレら。
子どもが追いかけっこを楽しんでいる途中であっただろう、日常の風景でさえも、切り取られたかのように停止し、腐っていた。
瞬いた瞬間に腐ったかのような情景。それがソロンの目の前にあった。
ソロンは知っていた、この元凶を。
(早く。早く“深淵”が世界を侵食する前に食い止めなければ―)
食い止めなければ、世界は“終わる”
そう考えた瞬間、握る拳には汗。背筋に悪寒が走り冷たい汗が噴き出る。
心臓は強く鼓動し、音は高鳴り、加速する。
緊張。
いや、恐怖なのかもしれない。
ソロンはそれを抑え付けるために一度のどをならす。
ゴクリ、と。
溜飲を下す、とまではいかなかったが、それで多少は落ち着いた。
すると、ソロンはそこで初めて気づいたのような表情をし、外套をガソゴソと探り始めた。まもなくしてそこから出てきたのは大の男の手からひじまでの長さのあるものであった。なにやら木製の弦楽器の様でもあったが、形のそれは歪であった。
楽器は鼓動していた、しゃらん、しゃらんと―――
目に見えるほどの白く薄い膜を持った余波があふれでていた。まるで何かに反応しているかのように。
(まさか・・・まさかまだ“生きている”のか?)
――――“深淵使い”が
足が震え始める。つけ石のように足が重くなり始める。
それでもソロンは行かなければならなかった。この世界を終わらせないために、行かなければならなかった。何より、託された小さな“願い”を守るために――――
ソロンが手にしているもの“ハルケイン”は導く。そこに、そこにいるぞと心を震わすほどの波打つ波動を持ってソロンに伝える。
そこに“深淵使い”はいるぞ、と後押しするようにソロンの心臓をうつ。
(俺は、俺は行かなければならない―――)
もう一度ソロンはのどを鳴らした。己に秘めた覚悟を動力にして、重い足取りは歩きだす。ザッと一歩。そしてもう一歩。
視線をあたりにさまよわせる。その瞳は決意を秘めたアメジストで輝いていた。
少女は夢を見ていた。
真っ黒い夢。
真っ黒いモノが村に忍び寄る夢。
それにカタチは無く、しかし存在し、霧か水か雲か、果たしてその真っ黒いモノの表現は無い。
その真っ黒いモノは村と外界を隔て、護る木柵ジワジワとよじ登り、柵を越えようとする。いや、しているように見えた。
コレジャナイ…
その声は果たして声なのか音なのか。うなりをあげて真っ黒いモノはつぶやく。
次の瞬間。
音たてることなく―――木柵は消えていた。
コレジャナイ、コレジャナイィィィッ
真っ黒いモノは咆哮した。まるで、その咆哮は嘆き、もしくは苦しみ。
コレジャナイ、コレジャナイィィィッ
ソレは何度も何度も咆哮しながら滑るように村へ侵入した。真っ黒いモノが這った軌跡は腐り、溝が出来た。
なのに、ダレも気付かない。
最初に餌食になったのは牛を引く青年。青年も真っ黒いモノに気付く様子はなかった。
オオオオオオオオオォォォォ
真っ黒いモノは地獄の底から這い上がってきた悪鬼の様な咆哮を奏で、
そして、勢い良く青年と牛に襲いかかった。
逃げて――――
少女は叫ぶ。
しかしその声が届かない。
真っ黒いモノは青年と牛を包み込み、瞬間に消滅させた。
コレジャナイ、コレデハ、タリナイッッ!!
吠える真っ黒いモノ。
なのに、ダレも気付かない。
ヒト一人と牛一匹が目の前から消えたのに。真っ黒いモノが目の前にあるのに。
まるで、そこに何も存在しなかったかのように。
ダレも、気付いてくれない。
真っ黒いものは次々と村にあるものすべてを飲み込んでいった。
家、家畜、穀物―――そして、人。
それだけではない。
真っ黒いモノが村の水路を縦断する。
タリナイ、タリナイ、タリナイィィイィィィィィッッッ
水路は瞬間で枯渇し、水車がとまる。
ドコダドコダドコダドコダドコダドコダドコダァァァァァァ
真っ黒いものが天高く、尾をひきながら伸びあがり、空を覆う。
オオオオオオオォォォォォォォォ
咆哮か、轟音か。
少女の村は闇に包まれ、太陽の光さえも飲み込んでいく。
少女は見ているしかなかった。
ダレも、誰も気づかない。
その存在に。
次元を超えたものに―――
咆哮は続く。
オオオオオオオォォォォォォォォ
村が飲み込みこまれる。世界から存在そのものが消えていく。
誰も気づかない。気付かないまま、そこにいたという証拠を消されていく。
オオオオオオォォォォォ
最後に存在したのは少女の家。
ただ一人、存在を認識した少女にも真っ黒いモノは迫る。
やめてっっ―――
少女は叫んだ。
この世界では認識されない、この世界の枠から外れたソレに向かって。
また少女は叫ぼうとした。
だが出来なかった。
ソレと視線があったのだ。ソレは少女を見ていた。ソレに「眼」は無い。何より形の無い抽象の存在である。だが、少女は感じた。
値踏みするかのような視線。
確かに、ソレは少女を見つめていた。
少女の足が震える。恐怖か。違う。そんな単純なものではない。生命の危険からくる恐怖ではない。
これは、単なる死ではない。魂の消滅。輪廻する魂の円環からの消滅だ。
しかし、少女の脳は生命の危険と感知し、肉体にその際の生体反応を伝達するのみ。
噴き出る汗。少女の可愛らしい唇は高まる心臓の鼓動と共にうるおいを無くし、乾いていく。恐怖が心身に過度なストレスを強い、ノドに焼けつくような胃液がせりあがる。
ただそれだけだ。ソレに対してできるのはそれだけの反応。
ヒトは、己の魂を防衛する手段を持っていない。結局、恐怖がどのような形であろうとも、認知できないモノに対しては認知できる範囲でしか反応できないのだ。
この恐怖から逃れるための反応など不可能。
なんと無力。
人間はなんと非力な存在なのだろうか。
ふと、目の前のソレが突然笑った。ニヤリと。
「口」は無い。だが、確かに笑ったのだ。
そしてソレは言った。
歓喜に奮える声で、
ミツケタ―――と。
その笑みは欲望。あるいは憎悪、愛憎、殺意。
総ての悪意。
少女は感じた、その悪意を―――――。ニンゲンが抱くすべての負の感情を。
この瞬間だけ、果たしてそれはニンゲンのようだった。
アァ、ミツケタ、ミツケタ、ミツケタゾ
ツギナルワガヨリシロヲ―――――ワガウツワヲ――――!
「誰か、誰か助けて…!!」
少女アバリスは叫んだ。
「……か…誰か……けて…」
汗を含んだ亜麻色の髪がアバリスの額に、首筋にへばりつく。その尋常ではない娘の状態に母親は彼女を揺さぶり起こそうとした。
「どうしたの、どうしたの、大丈夫?」
――だめ…だめ…早…く、早く、逃げて…逃げて…っっ!!―――
アバリスは半分悪夢にまどろみながら、必死に叫ぼうとする。だが、のどにたまった胃液がそれをさせない。
アバリスは激しくむせた。
声が出ない―――。
「待っていなさい、今お水汲んできてあげるから」
母親はそう告げてアバリスのいる部屋をあとにする。
アバリスはもう一度母に向かって叫ぼうとした。
無駄だとはわかっていた。
でも。
それでも、叫ぼうとせずにはいられなかった。
出ない声。
瞳にたまる涙。
絶望―――――――
ウケイレロ、ワレヲ、ナレノナカニワレヲウケイレロ―――
ソレがアバリス向かって手を差し伸べる。
「いやだ、やだ…いやだ……」
やっと出したその声も虚しく、真っ黒いモノ“深淵”に吸いこまれるように響き、霧散した。
瞬間。
少女の肉体は、深淵の海に呑みこまれていった。
セフィール・アツィルトは颯爽と大地を駆けていた。
切れよくしなる真っ白な法衣。大地を蹴るその足はまるで疾風、腰まで伸びる彼女のオーシャンブルーの髪をたなびかせている。切れ長の瞳に宿るそれもまた、オーシャンブルー。乳白色の肌に、スッとまっすぐにのびた鼻筋。ひとふで書きしたように細いまつげと唇。
見事な精巧美だった。巨匠が放つ絶世の美女そのものであり、例えるならばヴィーナス像でも過言ではないだろう。
セフィールは速度を落とすことなく駆ける。
汗が滴ることなく、息を切らすことなく、大地の凹凸関係なくセフィールはさらなる加速をする。
誰かが見たら、白鳥が飛んでいるように見えるのではなかろうか。
それほどまでにセフィール動きは重力を感じさせなかった。
「あーまいったなぁー。間に合うかな」
少々間の抜けた声。それは風に乗ってながされ、置いてかれていく。その声の主、セフィールによって。その声を拾う者はいない。ただ、霧散霧消していくだけだ。
「間に合わないかなぁ?」
再びセフィールによってつぶやかれたそれは、今度は置いてかれることはなかった。
『もたもたしていたら、間に合わないかもね』
凛とした声がその問いに答える。
だが、彼女の周辺には誰もいない。
「んー…やっぱり?」
それでもかまわずセフィールは言葉を返す。
『ていうか、早く帰ってきてもらわなきゃ困るのよね。あなたの代理、結構つかれるんだから』
再び声が返ってくる。
セフィールは明らかに会話をしていた。そこにはいない誰かと。
「う~。でもさぁ、“クラウ”が仕事やってくれたほうがまわりから小言言われずに済むっいうかさぁ」
『アナタが怠惰なだけでしょ!!』
キレた。クラウの甲高い怒号。それはキィーンとセフィールの脳内を駆け、セフィールは思わず顔をしかめた。
「もうっ、叫ばないでよぅ。クラウぅ~」
セフィールは依然速度を維持したまま子供のように頬をふくらませ、プンプンと怒る。
『叫ばせるのはアナタのせいでしょっ!』
「ひぃっ」
セフィールは片手で頭を抱えた。
傍から見たらセフィールは独り言を言っているかのように見える。加えて颯爽と走りながらだ。事情を知らない人間が彼女を見たら、十人中十人が変な女だと判断するだろう。
しかしながら、独り言でも、ましてや二重人格――それでも器用に会話はしないであろうが――の類ではない。
セフィールと、ここではないどこかにいる“クラウ”は、脳内で会話している。
テレパシー。それはそう呼ばれていた。
思考を魔術変換し、特定の相手に送る。それがテレパシーの一般的理論。
互いに互いの思考を送り合う、初等魔術の一つ。
しかし、いくら初等といえども段階がある。持続的に互いの思考を送り合うなどのはその最高段階に値し、一流の魔術師にしかなしえない。それ以上のものとなると“幻術”や“心術”などの別次元の魔術としてカテゴライズされ、それを行使できるのは己が天稟によるとされる。選ばれしもの、才能、天才の領分として見られるのである。
セフィールとクラウが天才かどうかはわからない。ただ、一流の魔術師であると間違いなく言えた。
『…ねぇ、セフィール』
クラウがうってかわって静かに、なおかつ真剣みを帯びた口調で言葉を紡いだ。
「ん、何?」
『本当に…本当に救えると思うの?』
「ん、何が?」
キョトンとするセフィール。
『とぼけないでっ!!』
「あゅぅっ…!」
またキレた。
セフィールの脳内に激震。思わず舌を噛んでしまう。
「悪かったよ、ゴメン。いつつつ…」
セフィールは応えた。
「救わなきゃ、それがアタシの仕事だし。そのためにアタシ―――」
王になったんだから。
その言葉にクラウはため息をつく。
全く。損な役回りだ、自分も彼女も。
『ふんっ、だったら急ぐことね、早くしないとまたカートスに先を越されるわよ。今までずっとそうだったんだから』
「―――うん、そうだね」
返ってきた言葉には気兼ねがないようにみえた。
だが、クラウには感じとれた。
わずかな不安と憂いを。
だからクラウは言うことにした。
彼女がいつも戦士を戦場に送り出すときに言う言葉を。
激励と誠意を込めて。
どうか、お気をつけて――――――――
『……』
返事はなかった。
いつの間にかテレパシーが中断されていた。
ていうか、一方的に切られた。
「……」
ばきっ
羽ペンの折れる音がうずたかくそびえたつ書類の山で囲われた机の中で響く。
幸い、執務室には誰もおらず、クラウの静かなる暴挙をみたものはいなかった。
セフィールはいまだ、大地を颯爽と駆けていた。
「あんまり余計な魔力は使いたくないんだけどねー。けど間に合わないとなるとヤバいし」
彼女がため息交じりにそう言うと、白い法衣が輝きだした。青白く、正確にいえば法衣の背中部分から光が発せられていた。
背中に背負う、八光と円輪。すなわち太陽を模った紋章。そしてそれは彼女セフィールが抱える、王国アスパシアの王の証でもあった。
紋章からは彼女の髪の色と同じ、オーシャンブルーの輝きを放っていた。
「第一解放(ファーストリリース)―――」
セフィールがそう告げると同時に、太陽の紋章から枚挙に遑がないほどの青い金糸が顕現し、光のベールを形成しながら彼女の身体を包み込んでいく。まもなくしてセフィールの姿は青光の中へと消えた。
―――光速の蒼狼(フェンリル)。
彼女のもつ固有魔術の一。
無辺に輝く青光の塊は、ゆうに3メートルはあるだろう大狼フェンリルの容へと収束していく。
フェンリルは天高くとびあがる。
光の大狼は煌々とする尾を翻し彗星のごとく天を駆けていった。
アバリスの肉体には何の変化もなかった。
確かに自分は”深淵”飲み込まれた。そのはずだった。でも、自分はここに存在している。生きている。息も、ちゃんとできる。
あれは、本当にただの夢だったのだろうか―――
曖昧ではあったが変に現実味があった。
そういえば、母はどうしたのだろうか。出ていったきり戻っていない。
「お母さん」
母を呼ぶが返事は返ってこなかった。
アバリスは起き上がり、部屋を出る。
そこはあったのはいつもの生活の光景、ではなかった。
腐敗していた、台所も、テーブルも、椅子も全て。
まるで何十年も何百年も人が住んでいないような廃屋が少女の目の前にはあった。
不安がよぎる。
(夢とちょっと違う、でも・・・・)
夢と似ている――――
アバリスはテーブルに手を置いてみた。
瞬間
テーブルは木屑をたてて、ガシャンと音を立てて崩れ落ちた。その際に椅子をまきこみ、椅子も同様に木屑を立てて、崩れ落ちた。
わずかな力によって生み出された家具の総崩れは、部屋中にほこりを充満させ、それがアバリスの鼻孔を幾度なくくすぐる。
クチッ
アバリスは思わずくしゃみをした。少女らしくかわいらしい小鳥の鳴き声のようなくしゃみ。だがくしゃみだけではとまらなかった。目にも入ってきたのである。
「ううぅ~」
たまらず、アバリスは袖で目をこすりながら、外へとつながるドアのノブに手をかける。一旦、外に避難しようと思ったのだ。それに、母親のことも探さなければならない。
ドアノブの握って開けようとした瞬間、ドアが傾倒した。
ドアはバタンッという鈍音とともに地面に打ちすえられ、その衝撃で見事に二分された。どうやらドアも腐敗していたらしい。
(この家全体が腐敗しているかもしれない―――)
それを確かめようとアバリスはドアを踏みつぶしながら外に出る。
案の上、ドアは踏むたびに木屑と化した。
ドアに移っていた視線は次に外界へ。
ここでようやく、アバリスは現実を知る。
「あ、ああ・・・・」
言葉にならなかった。
どの言葉で表現していいのかわからなかった。
愕然――――
夢が現となった。
彼女の瞳には、無間の地獄が広がっていた。
そして、横目には井戸から水を汲む体勢のまま腐敗し、もはやかつて人であったと気づくのも難しいほどに変わり果てた母の姿が。
足がガクリと竦む。
足元に吐瀉物をまきちらし、嗚咽をもらさずにはいられなかった。
紛れもない現実に精神が切り刻まれる。
絶望に焼かれる。穿つ心に絶望が注がれる。
現実を受け入れたくないと必死に絶望の海から逃げ惑う彼女の心境。
現実逃避。
空しい逃げ道。
しかし所詮は無駄なあがき。
心はあふれんばかりに絶望にのまれ、脳は諦観をさとる。
涙霞は涙雨となり、地面に降り注いだ。
絶望で心がはちきれ壊れないよう、彼女の脳が下した慰めという名の防衛反応。絶望を含んだ涙は乾いた土に吸いこまれていく。いくら涙を注ごうとも大地にうるおいが戻ることも母親が戻ることも無かった。
竦んだ足に立ちあがる気精は無く。
心を保つことで限界。
少女アバリスは一人、終焉の淵に佇んでいた。