ソロン・カートスはあたりに視線を巡らせていた。一部の隙を見せることのない精鋭の兵士のごとく。
(どこだ、どこなんだ…)
ハルケインの波動は、先ほどよりも強く、速くなっていた。
(近い、近いぞ―――)
ソロンは張りつめた緊張を全身にめぐらせ、いかなる事態にも対応できるように意識する。
だがその代償として徐々に擦り減っていく神経。
村の中央を流れていた大きな水路にさしかかったときには至極疲れ果てていた。
「はぁ〜」
不覚にも出てしまったため息。それで気が緩んでしまったのか、思わずソロンはその場ヘタリと座り込んでしまった。ソロンは干からびた用水路の底をぼんやり見つめる。
静寂に満たされた世界。世界の終わりはこんな感じなのだろうか。完全なる“無”の世界。
想像もつかなかった。
ソロンはうろんな目で空を見上げる。空は晴れていた。雲ひとつない晴天。お日さまは当然のごとく、空の上で佇んでいる。その下で自分は一人、暗澹たる気持ちでただずんでいる。
「世界ってのは、どうしてこうもきれいでいられるのかなぁ・・・」
ソロンがぽつりとそうつぶやいた、その時だった。
バタンッ
何か、倒れた音が聞こえた。今ソロンのいる水路の向こう側から。
(誰か、いる――――?)
ソロンはハルケインを見る。ハルケインはその実体がわからぬほどに白く強い輝きを放ち、スタッカートの効いた短く速いテンポでドクンドクン鼓動を鳴らしていた。再びソロンの全身に緊張が走る。思いたったときには既に体が動いていた。音が聞こえたその方向へ。その目つきは以前の覚悟を秘めたアメジストに戻っていた。
誰よりも冷酷な、殺人者の目に―――――
アバリスは、あてどなく路傍をさまよっていた。もちろんあの場から立ち上がる気精などなかった、でも、安定を求める心がそれをまさった。早くこの場から逃げたかった。
もうなにも見たくなかった。
この現実という名の阿鼻叫喚から乖離したいと願う心に体は従順であった。
しかし裏腹に、皮肉にも歩けば歩くほどにその体に如実さがしみわたるのだった。
死んだ、父、母、そして村のみんな――――
アバリスを置いてみんな死んでしまった。アバリスはうなだれ、とめどなく溢れ出す涙と鼻水を袖でぬぐいながら、とぼとぼと歩く。その様は、迷子になって途方に暮れた幼子そのものだった。そうである、アバリスは生まれてまだ齢8年であった。少女というにはまだ幼子に近い年歳だったのである。
突如襲った不幸。まだ生き抜く術など知る由もない少女に与えられし過酷。
これは宿命か、それとも運命か――――
ところどころ擦り切れ、赤ぎれのある小さな薄小麦色の足が向かうは光なき、永劫の闇か―――
少女は歩く、生きている限り歩く、、、歩く、、、歩く、、、
そしてそこはかとなしに動く身体は行き着いた。ひとつの結末に。穏やかな幼少女時代の終わりに。
ドンッ
「あぐっ」
アバリスは何か生温かくてやわらかいものにぶつかり地面にコテンと尻もちをついた。
アバリスは顔を上げる。亜麻色の前髪がハラリと後ろへなびく。
アバリスの大きな瞳は驚愕と恐怖で見開いた。
アバリスのもとに落ちる影。そして―――
そしてアメジストの双眸が彼女の瞳を鋭く射抜いていた。
「だ・・・」
誰?アバリスの言葉はのどにひっかかってうまくつむげない。
「・・・・・」
アメジストの双眸は反応らしい揺るぎをみせない。まるで石像のようにその場に立ちつくしていた。いや、ように見えた。たしかに顔は動いていなかった。一分たりとも。しかし体は動いていた、正確には手が。手がアバリスの頭上に掲げられていた。
アバリスはその手を見入る。
太陽を背にした手はその血潮による陽と陽光の影による陰でその形をより一層くっきりとアバリスの網膜に届いていた。
(あれ・・・?)
ふとアバリスは男の手が普通のそれとは違っていることに気付いた。
(指が6本ある・・・?)
束の間、アバリスは悠長にそれを不思議がっている余裕はないことを認識する。
目の前の男の“六指”の手からは、線香花火のように四方八方にバチバチと紫色の電撃がほとばしっていたのだ。
恐怖が“見知らぬものに出会った恐怖”から“死への恐怖”へと変貌する。
「いやぁっ!!」
アバリスは男から、すなわち死から逃げようと身体を起こしざまに全速力で駆けだす。
しかし男がアバリスの背を追うことはない。その背のほうへ体を向けたのみであった。
光速超える速さを持つものなど、この世にはありはしない―――
それは男の手から放たれた紫雷のスピードから逃れる術などないこと示していた。
男はそれを知っていた、だからあえて動かなかった。少女の背に狙いを定めて雷を放つ。
雷のスピードに比べれば、アバリスの全速力などうさぎとアリと形容してもなお足りぬ。
結果はすでに見えていた。
「うわぁっ!!」
アバリスの視界が真っ白にまたたく。刹那、悲鳴をかきけすほどの轟音が走る。轟音は鼓膜が破れんばかりにアバリスの耳を劈く。光の残滓をひいて迫る雷は、アバリスの心臓をめがけて一直線にせまり、そして射抜く―――
次にソロンが見るときは、地に臥したまま動かない肉塊がそこにあるはずだった。
そこにあったのは、地に臥したまま子犬のようにぶるぶると震える、まぎれもなく生きている少女であった。体の態勢が整わないままに駆けだしたのが幸いしたのか、偶然にも身体の体重に足を取られ、こけてしまったのだ。
だが命拾いしたとはいえ、それは束の間寿命が延びたにすぎない。アバリスはいまだ死の淵に立たされていることに変わりなかった。
何よりアバリスはもう恐怖で動けないでいた。心の中でどうあがいても動けないでいた、心はすでに折れていたからだ、完膚無きまでに。
アバリスはやがてくる死の恐怖に震えるしかなかった。
男は、ソロン・カートスはゆっくりアバリスに近付く。アバリスの前までくるとソロンは一度、指を鳴らした。するとどこからともなくアバリスの頭上にブウンとうなり音をたてながら紫色の雷球が現れる。
「・・・・・」
沈黙が流れた。あたりに響くのは、アバリスのしゃっくりをあげながらむせび泣く声だけ。ソロンはもう一度、指鳴りの乾いた音を響かせる――――
突如、雷鳴が空気を切り裂き、雷光はアバリスのもとへと下った。
少女の矮躯を、血に鉛を注がれたような熱さが駆け巡る。脳が焼ける。瞳が震える。
アバリスは絶叫した。理不尽に命を破壊されることの怒り、悲しみ、無念の断末魔。
追随して襲う嘔吐感に耐えきれず、3たび嗚咽をもらす。徐徐にブラックアウトしていく視界と弛緩していく身体を頭の隅で感じながら、アバリスはバサリと地に臥し、動かなくなった。
眼下の動かなくなった少女を見るやいなや、ソロンはチィッと舌を鳴らした。
「くそっ、何をしているんだ俺は!!」
突然のソロンの怒声があたりの空気を震わす。
眼下の少女の矮躯は焼けただれていた。あちこち薄い皮膚はもげ、内面がむき出しになったそれからは真っ赤な血がにじみ出ていた。しかし少女はまだ息をしていた、虫の息ほどで瀕死の状態であったがまだ生きていた。
「どうして、なぜ・・・・」
ソロンはふるえる自分の掌を見つめる。
(無意識のうちに手加減をしているというのか?)
心の奥底で、迷っているのか―――ためらっているのか――――
そんなものはとうの昔に払拭したはずなのに・・・
自分のふがいなさのあまり、ソロンは怒りで全身を震わせる。
「何を迷っている、何をためらっている―――!!」
(殺さなければ、殺さなければ、殺さなければ殺さなければ殺さなければ――――!!)
殺さなければならない――――!!
(たとえ子どもだろうと関係ない、関係ないんだ――――!!)
ソロンは自分の肝に言い聞かせる、憎め、憎め、憎め、そして殺せと。
(おまえの目の前にいるものは、ただの子どもじゃない、すべてを滅ぼす悪意だ!)
迷うな、殺せ、殺すんだ―――
しかし、心に強く言い聞かせれば言い聞かせるほど、言い様のないさまざまな感情が胸のうちからにじみでて、錯綜していく。ソロンはどんどん燻っていく自分の心にもどかしさを感じて、はらわたが煮え返りそうな思いでいっぱいになった。
―――葛藤。それは、わりきれぬことから生まれる葛藤であった。
でも、何に対して? なんのために?
―――ソロンがそのわけを知るのは、もう少しあとになってのことだった。
(くそっ!!なんなんだ、なんだっていうんだ)
ソロンが苦虫をかみつぶしたように顔をしかめ、頭をふる。
そのとき、彗星のような大きな光輝が、上空の彼方から蒼い光の残光をひいて弧を描き、目にも止まらぬ速さで急速にソロンにせまった。
グルルルルルゥ
うなり―――それとともにソロンの身に衝撃が走る。
気づいたときにはソロンの身を虚空泳いでいた。見開いたアメジストの瞳の眼下には、蒼銀の輝きを放つ大狼のむき出しの牙と爪がせまっていた。
「チィッ!!こんなときに!」ソロンは右腕を大狼の前にかざす。
大狼の爪がソロンの身体をとらえた。爪がぐいぐいとソロンの肉体にめり込む。
ブシュっと噴き出し、爪先を伝って滴るソロンの真っ赤な血。大狼の前足は息ができぬほどにソロンの五臓六府を圧迫する。ぎしぎしと軋む肋骨と背骨の鈍いいやな音が耳鳴りのように全身に響きわたる。
刹那、追随する大狼の牙。ソロンの右腕は鋭利な牙の連なるその口の中へと飲み込まれた。
その右腕を食い切らんとして噛み締める大狼の牙。ソロンは左腕で牙の一本をつかみ、必死に抵抗する。
グルルルルルルルルルゥ
大狼はうなり声をあげる。その堅固な顎の力に左腕が強張る。
「ぐぅぅぅぅっ・・・!!」ソロンは歯を食いしばる。額に浮かぶ脂汗。
だが、こうしている間に大狼とソロンの身体は重力に従って地面に近付いていた。激突すればおそらくその衝撃でソロンの右腕は間違いなく噛み切られる。はじめから右腕を前にかざすような真似をしなければ、あるいはこの突然の奇襲に右腕を食いちぎられる、といった事態がソロンを追い詰められることはなかっただろう。防戦に呈せず、ソロンはリスクを背負った。はたから見れば、それは無闇に傷つくための愚かな行為そのもの。血迷ったかに見える。しかしソロンには見えていた、幾多の戦場を乗り越えてきたものに見えるもの、生と死の挟間に垣間見える勝機が―――
「俺の・・・・」
ソロンは耐える、その勝機の瞬間まで。地面に激突するその瞬間まで。
落ちる――落ちる――落ちる――
自由落下―――
そして時はきた、地面に激突する瞬間。大狼の足が地面に着地するその瞬間―――!!
ソロンの右腕が紫電に纏われていく。
「じゃまをするなぁぁぁ!!」
咆哮とともに、ソロンの“六指”から紫雷が射出される。それぞれの指から一本ずつ。計6本の雷電が大狼の巨躯を一瞬にして駆け抜けた。
その刹那―――爆発―――
大狼の巨躯が爆発したのだ。爆風とともに巻き起こる砂塵。視界が土気色一色に閉ざされた。
「くぅっ!!」
爆風の余波で再びソロンは虚空へと投げ出される。荒れ狂う熱砂の嵐にソロンの外套はジリジリと焼かれ、ほころんでいく。
息ができない。息をすれば、熱砂に肺を焼かれる。
砂塵の霧で閉ざされた空中間に浮かぶ身体は上下感覚を失っていた。だがソロンがあせることはなかった。あせりは思考を短絡的にさせ、戦場下では己の死を招きかねない。ソロンはそれを頭ではなく、経験すなわち心で理解していた。多くの者の死を見てきたことで、自分がこの手で殺めてきたことによって理解していたのだ。
瞳を閉じる。今、視覚は必要ない。余計な情報こそが錯覚の元凶だからだ。
意識を集中する。風をとらえるために。風音に耳を傾ける。肌で感じる風の流れに感覚をまかせる。
(何をしているんだ俺は・・・・忘れたのか?“深淵”を滅ぼさなければ、あいつの“願い”を守れないということを!!)
夜目にもあざやかなアメジストの瞳は静かに開かれる。瞳には、強い精気が宿っていた。
風をとらえた――――
ソロンはバサリと外套のすそをはためかせ、身を翻す。見事な宙返りを決めた。そして、着地の衝撃を足の屈伸と前回りをすることで殺し、前回りの勢いを利用してすぐさまに立ちあがった。
「次は、迷わない。確実に“深淵”を葬ってやる。そして、おまえは目ざわりだ!セフィール!」
ソロンは外套からハルケインを取り出し、天高くそれをかかげる。
「大気を揺らせ、ハルケイン!!」
ハルケインがまばゆい極光の白でまたたく。沸々と温泉がわきたつように光の波が、ソロンを中心に周囲へと大きく範囲を拡げて伝搬していく。まもなくして火山が噴火したかのごとく、大地が揺れんばかりの音響がソロンの周囲にこだました。
「いっつつつ・・・」
雷撃を受け、爆風をもろともに受けたセフィールは地面を二転三転し、ようやくして止まった。
(奇襲失敗するとはな・・・)
「こりゃ、“聖鎖の守護者(ガーディアン)”でも敵わないわ」
ガーディアンとは、国家に属する魔術師のこと魔導士官(テーラー)の中から選りすぐりの精鋭で組織されたもので、魔術師を専門にとりしまる、いわば監視官である。
セフィールは彼らに、とある事件の重要参考人であるソロン・カートスのだ捕を命じていたが、誰一人としてソロンを捕まえられたものはおらず、すべて返り討ちにあっていた。
それはソロンの底知れぬ強さを物語る。国家最強の魔術師の軍団で手に負えぬ、ならば彼に対抗できる限られたものが出向くほかない。その限られたものの一人がセフィールだったのである。
セフィールはおもむろに立ち上がる。法衣はほころんでいた。にもかかわらず、先ほど受けたはずの雷撃の傷はどこにもなかった。それどころか、七色宝石のように光り輝く糸が突如顕現し、ほころんだ部分をするりするりと円滑に結いていく。一瞬後、そこにあったのは、ほころびのないもとのきれいな法衣であった。
セフィールは踵を返し、慎重な面持ちで歩きだした。視界は土色の濃霧に包まれている。
数歩歩いて立ち止まった。眼下足元には、セフィールの碧海色の瞳には、土色でかすみながらも、全身火傷を負ったアバリスがうつっていた。
(この子が新たな“深淵使い”、いや、“深淵の守人”か・・・)
セフィールはしゃがみ、アバリスの脈をとる。
「よかった、生きてる。運の良い子だ。」
セフィールの顔に安堵の表情がひろがる。
(しかし、ソロンが殺し損ねるなんて――――)
とにもかくにも、今はこの子を連れて、ここから逃げ出そう、そう思った矢先のことだった。
首筋がビリビリしびれて麻痺するような感覚がセフィールを襲った。背筋にゾクリと悪寒が走り、冷や汗が滴る。殺気がセフィールに向かってものすごい勢いでせまっていたのだ。
「ソロンのやつ、この子が死んでしないことを知っているのか!」
セフィールは気配のするほうへ向き、構える。
突如、突風が巻き起こった。竜の咆哮のごとく、轟音があたりにこだまする。
碧海色の長髪が波打つ。体にのしかかる風の重みは予想以上だった。なお後ろに傾いでいく身体の態勢を整えようと、より一層強く足を大地に噛ませる。そして、砂が目に入らぬように腕をかかげ、目を細めた。土色の視界に裂け目がはいる。まるで、一刀両断したかのごとく。砂塵の霧が、一挙にその形ならぬ身を左右へとのいていく。全身に紫雷を纏ったソロンがその開けた視界をセフィールのほうに向かってまかりとおる。逆光でフード下の表情は見えない。
セフィールは眼前のソロンに警戒しながら目だけを動かし、あたりを探る。
(だめだ、“武器”になりそうなものがない・・・)
これだけ腐敗してちゃ、“取り込む”のは難しい――――
「仕方ない・・・」
このとき、セフィールはある一つの決断をしていた。
ソロンとセフィールの間合いは少しずつ縮んでいく。毛がよだつほどの殺気がセフィールの全身の肌をピリピリとはじく。胸が押しつぶされそうなほどのはりつめた緊張感が唇の渇きをうながす。
セフィールは、ソロンとセフィールの間だけ、時間はゆっくりと流れているように感じていた。セフィールの額から一筋の冷汗がしたたる。高鳴る心音。
ドクン―――心音と同時にソロンが一歩間合いつめる。
ドクン―――ドクン―――ドクン―――ドクン―――
そして、雷撃の射程に入ったその一瞬――――
セフィールは四つん這いになり、アバリスの上に覆いかぶさる。頭上を雷撃がほとばしった。
(よし、思わくどうりだ。)
ソロンの初撃をかわしたセフィールはその間隙を逃す手はなかった。セフィールはアバリスを脇にかかえ、ソロンに背を向けて疾走する。
(ふりきれるか――――?)
セフィールの決断、それはソロンのだ捕を諦め、この深淵の少女を救うこと。
―――本当に・・・本当に救えると思うの?
クラウの言葉が脳裏をよぎる。
「・・・ああ、救ってみせるさ」
たとえ、それが世界を天秤にかけることだとしても―――
そのなみなみならぬ覚悟を秘めた底光りな瞳は、海の色でたたえていた。
セフィールは脇目もふらずに駆ける。そのわずか後ろで落雷が起こる。心の臓を震わす雷鳴に思わず後ろを振り向きそうになるが、すんでのところでこらえる。戦うことに明け暮れてきたセフィールにとって、敵に背中を見せることほど恐怖なことはなかったのだ。
ソロンもまた、逃がすまいと迫っていた。だが、足のスピードはセフィールのほうが格段に上である。雷撃の射程を鑑みてもわずかに届かない。
(逃がさない・・・逃がすものか!!)
「力を貸せ!ハルケイン!」
ソロンの声に反応し、ハルケインがしゃらん、しゃらんと筆舌しがたしなんとも奇妙な音色を奏ではじめる。その音のリズムに合わせて、ソロンの魔力がハルケインへ吸い寄せられていく。筋肉は次第に強張り、熱くほてっていき、滝のような汗が全身から流れ出る。
たまる乳酸。身体は疲労困憊に陥る。
大量の魔力が急激に奪われたゆえに起こった結果であった。魔力もまた、生命活動エネルギーのひとつ。使いすぎはもちろん、枯渇すれば死にいたる代物なのだ。つまり魔術とは、己が破滅を導きかねない諸刃の剣。それを扱うものたち、すなわち魔術師とはそれを玩び、使いこなすもの―――そう、ぞんざいに己の命を扱い、なおも生き残るもののことを指す。
今、ソロンの顔はひどくやつれていた。我が生命線をぎりぎりのところで保っていた。
そんなソロンの衰弱とは裏腹に、ハルケインは真っ赤に、真っ赤に、紅蓮のごとく、たぎる血よりも赤い、まさに活力の結晶と言わんばかり強いきらめきを帯びていた。
それらすべての代償は、糧はソロンの魔力。あるいはその源である精力<オド>。
ソロンはハルケインをセフィールの背に向け、そして流暢に唱える。
「彼の者に獄火と狂気の幻想の調を!奏でよ、ハルケイン!!」
一瞬の間隙―――ソロンをとりまく世界はこのとき沈黙していた。
しかしそれもつかの間のこと。世界を束縛する時間は、現象となって動き出す。
――――「波動」という現象となって。
「波動」がセフィールの脳髄を一瞬にして駆け抜けた。
それは、音の波動ではなかった。ましてや、光の波動でもなかった。
――――それは生きとし生けるものすべてに備わった森羅万象の波動、「脈動」であった。
(※ここから先はノン推敲のプロトタイプです。誤字脱字がちらほら目立つようになるかもしれませんがあしからず。)
―――揺らめき。セフィールは、言いようのない不思議な揺らめきを全身で感じていた。
ゆらり、ゆらりと一定のリズムにのってそれは、セフィールの皮膚、肉、骨、五臓六腑、脳、細胞までをも揺らしていた。
(なんだ、この感覚は・・・)
視界がゆがむ―――身体じゅうすべての感覚があいまいになっていく。
(これは・・・これは“幻術”か!!)
身体の感覚がなくなっていく、それは幻術にかかりかけている前兆であった。
セフィールは意識をもっていかれないよう歯をくいしばり、耐える。ととのった顔だちが、苦渋の色に染まる。だが、耐えようとすればするほど、セフィールの走る速度は次第に落ちていき、その間にソロンがセフィールとの距離をつめていく。
セフィールはなんとか幻術にかからないよう試みるが、幻術に頭がやられているので身体がうまくいうことがきかない。
その間にソロンに追いつかれしまう。
(ここまで、来たのに、また・・・救えないのか。)
やりきれぬ思いが心にあなをあけ、そこから惜念とくやしさが注がれる。
ソロンはセフィールの脇にかかえられたアバリスに向かって雷撃を放つ。
(今度こそ・・・)
今度こそ、すべてが終わった・・・わたしはまた、命をこの手が破壊した・・・
しかし―――
事態はそう単純に終わりをむかえなかった。
雷撃がアバリスにあたるやいなや、飛散したのだ。
まるで、目に見えぬ壁がそこにそびえたっているかのごとく。
それだけではなかった。
アバリスの身体から、“真っ黒いもの”がゲル状にドロリドロリと次々にあふれだしたのだ。
それには、セフィールも気づいていた。不覚にも彼女は、その光景に恐怖でおののき、
おもわずアバリスを放りだそうとしてしまう。
しかしそれは、かなわなかった。からだがまったく動かないのだ。
“真っ黒いもの”はセフィールの肩を伝って彼女をのみこんでいく。セフィールはなにもすることができず、なすがままに飲み込まれていく。“真っ黒いもの”はソロンにも飛び火し、彼もまた何もすることができずに飲み込まれていった。
脳髄をハンマーでたたき殴られたかのような衝撃が駆け抜けた。その拍子でスィッチが入ったかのごとく、頭のなかである映像が浮かんだ。
何も考えることができない、ただ見るだけ、見せられるだけ――――
セフィールは粗末な木造家屋のなかにいた。
(・・・寒い)
セフィールは身を切るような寒さに身震いをする。家屋のなかは、薄暗かった。
唯一を明かりは、暖炉で焚かれ、パチパチと爆ぜる炭火のみ。
その前でござとなめし皮を重ねた敷の上で横たわっている一人の女性が。
その女性のそばには、二人の人物がいた。
炭火のあかりだけではよく見えなかったが、一人は男で、一人は老女のようだった。
老女は、歳相応にめじりに深いしわがあり、顔にいくつもの黒い斑点がうかんでいた。
男のほうは、セフィールに背を向けた体勢座っていたので、顔を見ることができかなった。
「あの・・・」
セフィールは話しかける。しかし、反応がない。
「あの、」
セフィールは彼らの肩に触れようとするが、透過してしまう。
「あれ・・・」
(どうやら、私はどこか別の場所にとばされたわけではないようだ。)
セフィールはただ彼らの様子をただ見ているだけだった。
老女はおもむろに頭に巻いていた真っ白な三角巾をはずす。そして、湯気でたゆたう白湯の入った桶を脇によける。
「わが子を見ることなく、逝っちまうとはね・・・」
老女のしわがれた声が澄み切った空気を静かに震わす。老女は女性に近付き、生気を失い、真っ白になった女性のほおにやさしく触れる。
「神様ってのは、むごいもんだ。」
(あれは、産婆か・・・にしてもいったい・・・)
セフィールは背を丸めてうなだれ、ただ呆然と座っている男の顔をのぞきこむ。
男はむせび泣いていた。腕のなかに生まれたばかりの赤ん坊をかかえながら。
「あまりこういうことは言いたくないのだが、その子も、長くない・・・」
老女の言葉に思わず、セフィールと男は顔をあげ、老女の顔を見る。男はなにか言いたそうであったがうまく言葉を紡げない。
「うみながしの未熟児が生きる見込みはない。顔色も良くない。せめて産声をあげてくれれば・・・・・あんたもわかっているだろ、この国じゃ5人子ども生んで2人育てばいいほうだ。あとは、7つむかえるまえに病気で死んでしまう。」
老女の言葉に、男は再びうなだれる。
「いや、だ・・・どうして・・・」
赤ん坊の顔に男の涙の雫がしたたり、ぽつり、ぽつりとはじける。まるで、希望のかけらもない無慈悲の雨のごとく。
「どうして・・・」
ドウシテ、ウマレタノニカナシイ――――
ドウシテ、ウマレタノニナイテイル―――
ドウシテ、ドウシテ、ドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテ――――――――――!!
突如、セフィールの視界がブラックアウトした。
次の瞬間、セフィールはもとの場所戻っていた、瞳のなかにはもとの光景が広がっていた。アバリスもセフィールの脇のなかで、静かに穏やかに寝息をたてていた。
(・・・なんだったんだ?)
セフィールは胸をギュっとおさえる。碧海色の瞳から涙がこぼれる。
(なんで、こんなに悲しいんだ?)
今セフィールはとめどなくあふれる悲しみに心がこわれそうなほどにうちひしがれていた。
セフィールの瞳からしたたる涙雨はやむことなく、地面にふりそそぐ。
(なにをしているんだ、早くここから逃げ出さないと・・・)
セフィールは肩越しに、ソロンのほうへふり向く。思いがけない光景に驚きのあまり、碧海色の瞳が大きく見開かれた。
ソロン・カートスも泣いていたのだ。立って硬直したままで。
セフィールに向けられていた腕は力なくふりおろされ、手の中からハルケインがゴトリと地面にこぼれおちる。
(まさか、こいつも・・・・)
「いや、こんなことしてる場合じゃない。好機だ・・・」
セフィールは涙を袖でぬぐい、ソロンの様子をうかがいながら再び疾走する。
(よし、この距離なら追いつかれない)
―――――フェンリル
真昼の空に浮かぶ一筋の蒼い光。それはすでにはるか彼方に飛びすさった大狼が描いた
残光であった。